JARL京都クラブの歴史(第1回座談会)
1999年新年会の前に、1970年代に京都クラブで活躍されていた、
JA3NHK,JA3SCV両氏をお招きして座談会が行われました。
1999.1.15 15:00-18:00
百万遍「写楽」2Fにて。
司会;JH3TXR,JH3QNH
ゲスト;JA3NHK,JA3SCV
JA3NHK氏 JA3SCV氏
敬称略
TXR(以下、T):今日は、お忙しい所を集まっていただき、ありがとうございます。
京都クラブでは1997年に50周年を迎え、編集部では京都クラブの50年の歴史を
まとめようとしています。そのために、昔の会報を読んでいますが、それだけでは
伝わらない内容を、京都クラブ昔を知っている方々にお聞きしようとこの場を設定しました。
SCV(以下、S):先日、JA3OXK氏(以下、OXK)と会って、京都クラブの
OB会みたいなものをやらなあかんと話をしていた。先ほど、実家に寄って、会報と
アルバムを捜してたら、何故か会報のNO.1もあった。
NHK(以下、N):それは、JA3SKY(以下、SKY)中井さんの頃やね。
T:二人とも、その頃はすでに会員やったんですか?
S:NO.1が何故あるのか、会員だったかどうかは、よく覚えていないけど。
当時は免許を取ったら、どこで解ったのか知らないが京都クラブの入会申込書が
送られてきてた。
T:そういえば、京都で無線するのに京都クラブでなかったらモグリやと言われた時代があると
聞いたことがあります。
N:私は50MHzでJA3QOSと知り合って連れていってもらい入会したように思う。
当時は、JA3SKY、京洛無線の左近さん、JA3LFA,JA3ALOなどがいたと思う。
50MHzはマイナーなグループやった。
S:21MHzには、JA3RPU,JA3QKU,JA3MNP,JA3LVT,JA3BZC
などがいた。
T:二人は同じ頃に京都クラブに入会ですか?
S:たぶんそう。会報が一桁の号のころ。三十三間堂の日赤に行った記憶がある。
N:確かその後、SKYが喧嘩して日赤を追い出されたように思う。
SKYは喧嘩っ早かったから・・。日赤はその後、モービルのクラブにが入ったように思う。
だから、JA3YAQを山科の花山天文台に持って行った。結局、SKYの周りのJA3IXF
(以下、IXF),当時学生だったJA9BOH(以下、BOH)やJA3NOAとか、
京都大学の一連の人が中心になって京都クラブを運営していた。
T:当時のこと詳しく知っておられますか?
N:その頃の話はIXFに聞いた方が詳しい。実際には、京大の職員だったIXFが実行部隊だった。
SKYとこで毎月、ガリ切って会報をつくっていたのを覚えている。
S:そうそう、離れで輪転機を回していた。
T:ミーティングを結構やったはりましたね。
N:最初は、日赤の会議室やったけど、突然、場所がかわった。
S:ある日、日赤に行ったら、ミーティングをやってなかった。
N:(会報を見ながら)会報には下京消防署の会議室でミーティングと書いてあるで。
S:日赤を追い出されて、その後の場所の「つなぎ」に消防署を使ってた。
会員だれかが消防の関係やった。
S:(会報を見ながら)会報に同志社高校でリグが盗まれたと捜索願いがあるわ。
N:岩倉の同志社か?
S:そうそう、クラブの部室から。JA3XGF(以下、XGF)のFT400や私のFT101。
犯人を見つけてくれたのがJA3AJ(以下、AJ)。
N:何で、AJさん?
S:どっかの子供が犯人みたいで、相手とは会わずにAJさんが話をつけてくれた。
それでリグは返ってきた。
N:そういえば(西京極の)KPC会館でも会議があったのを覚えている。
S:それは後の頃。それまでは日栄無線の、当時はプレバブの、2階やった。
日栄無線が繁盛し始めて、2階を倉庫にするからと追い出された。
その代わり、日栄無線の名前でKPC会館を借りてもらった。
N:KPC会館は結構、長く使っていた。
T:私も入会したとき、40周年の全市全郡の打ち合わせに一度行った気がする。
S:しかし、例会と会報刷りの記憶がこんがらがってきた。
S:KPC会館の頃から、JE3JWA(以下、JWA)原さんが登場する。
N:するする。
S:JWAのおかげで会報がゼロックスになった。正確には機械はリコーやけど。
N:それはSCVが編集部やってたころやね。私は最後までガリ切っていた。
S:(会報見ながら)JA3OXKもよう原稿書いてるなあ。
N:あの人、マメやもん。
S:あった、日栄無線の2階でのミーティング。昭和47年末頃や。
JA3BZC鶴沢さん(以下、BZC)の弟さんも入会している。あの人もよく比叡山に
上がっていた。
あの頃の新年会は嵐山レストハウスやった。
N:そういえば、JA3XDL富山さんって居たなぁ。今でも会員?
T:今はちがうけど、私のオヤジの知り合いで私の開局の時に免許申請書を書いてもらった。
N:けど、あんな町中(下京区)でよう無線できたなあ。
T:コンテストといえば、比叡山ばっかり?
N:全市全郡は毎回、比叡山。今は無いけど、賞品商品が良かったからやっていたとか。
OINが東京に行って貰って来たように思う。
S:NHKさんの記事あるで、6mSSB局の所在地の地図。
消防所のつては、JA3FJIさんや。場所は松尾になっているけど、八幡のほうに
家を変わらはった。私が、会報の取材に行っんそっちの家の方や。
N:その会報、いつ頃?
S:昭和48年。
N:私は、まだ編集部に入っていない。会長はBZCや。
N:このあたり、私の字や。
S:ほんまや、編集NHK,IXF。
N:コンテスト担当が、XGF、JA3QGI(以下、QGI)と書いてある。
S:XGF、QGIいまだに無線やってるもんなぁ。
N:和歌山でまだやってんの?
S:そう、機械のメンテにXGF、JH3FJGがやっているらしいで。
N:元気やな。
S:山の上やからロケはいい。「すすき」の有名な、生石高原。FJGも未だにしっかり
無線やっている。
N:仕事は、どっか神戸方面?
S:彼とは、同志社大学JA3YCZのメーリングリストで繋がっている。
N:早越君まだ独身?
T:はい。
S:無線はやっていて、そのインターネットのメーリングリストを1200MHzの
無線パケットで取っている。無線でそんなもん取るなよって言っている。
N:メールは、取れるんやろ。
S:けど遅いで。
T:画像ファイルを送ったらFJGに怒られる。ちなみに、QGIさんとこにパケットとインターネットの
ゲートウエィが置いてある。コールはJE3YEK−7です。
京都クラブのメーリングリストのサーバーもQGIに借りている。その他、JARL京都府支部
(以下、支部)やオムロンの無線部も。
S:京都クラブのメーリングリストには入ってへんけど、
最近、YCSのメーリングリストが昔のラグチュウの感覚でやっている。
N:(会報を見ながら)KPC会館会館に変更なってる。日栄のあと。
S:EOQも入っている
N:そのころ京都府支部長のJA3UP(以下、UP)を会報で攻撃したん覚えてるなぁ。
S:そうそう、今回、何か資料ないか捜してたら「UPを囲む会」というテープが出てきた。
今日の話題やないと思ってたんで、持ってこなかったけど。
N:会報の記事を見て、「そんなん書いているけど、どうなんや?」とJA3AD深田さんから
電話がかかってきた。そのとき初めてADさんの声を聞いた。
N:さっきの比叡山の話やけど、SKY時代からいつも行っていた。
S:だいたいJA3OIN(以下、OIN)が入会したのも比叡山がきっかけや。比叡山から
京都クラブが運用していたら、OINが向日市の固定から「山からガンガン電波だすな!!」と
怒ったら、逆に、「ごたごた言うなら上がって来い!!」と啖呵を切られて、比叡山に
上がってきてそのまま入会した。ミイラとりがミイラになった。
N:比叡山からやと、OINの50MHzはガンガン入っていたなぁ。
T:そうすると、OINは2人のあとの入会?
S:そう、OINは私らより後の入会です。
S:会報に「SCVのおじゃまします」のコーナをつくったけど、色々あった。
会報見て、「あの記事は何や!!!」とJA3LVPに怒られた。
=== ここで、JH3QNHの登場 ===
Q:今どのあたり見てるの?
S:1976年頃。
T:1970年ころからSCVさん編集部ですね。
S:100号記念か何かの頃に戦後の最初のメンバーを集めて座談会をしようと当時会長の
OXKさんのとこの2階にこんな感じで集まっていた。
Q:その記録、残ってないの?
S:それを捜そうと思っていたら、「(JA3)UPを囲む会」というテープしかなかった。
Q:その時の内容は会報になってないの?
S:結局、取材したけど出してなかったのとちがう?
N:その記事はなかったように思う。会報の100号記念は100号が過ぎてからやろ。
T:確か110号くらいに、100号記念がどうのという記事があります。
S:よく、京都府内をJCGサービースやっていた。
N:その場所の許可もとらずに。
N:何回かフォックスハンティングもやった。円山公園で。
Q:それ、支部の行事?。
N:そう。フォックスの送信機を造ったのを覚えている。オーバートーンの水晶を発振させて、
テープレコーダーをつないで。
Q:この当時は、JARL京都府支部と京都クラブの癒着とか言われなかった?
S:支部にはJA3UP(以下、UP)しかいなかった。
Q:支部役員はゼロ?
S:いたけど、実質、頼んでも動ける人がいなかった。それやったら、京都クラブのメンバーが
入って実行部隊をやりますよという事になった。
N:けど、UPや支部が動かないとかで、私が京都クラブの会報でたたいた。
Q:それ残っているか?
N:残っていると思う、S48年ころ。結局、どうにもならんかって、私も支部役員になっていた。
かなりえげつなくたたいた覚えがある。
Q:けど、これが、支部と京都クラブの転機になるんでしょ?2つの組織が一体化していくという。
Q:UPさんが府連のころ?
N:そう、UPさんしか居なかった。
Q:なんで、UPさんが支部長になった?UPさんが手をあげた?
N:他にだれも手を挙げなかった。あの頃は選挙も無かった。
N:その後、事件があった。京都コンテストの名前の付け方で。JARL主催の場合の付け方と、
京都クラブの付け方でちがった。JARL−NEWSにはUPさんがつけた名前で載っていたけど、
実際は京都クラブの名前でやっていた。実行部隊は京都クラブやったから。
Q:もともとは京都コンテストは京都クラブだけでやっていた?
N:そう、と言うか境目が曖昧やった。
Q:ところで、第1回京都コンテストは支部と一緒にやっていた?
N:第1回は私は知らない。入ったときはすでに何回かやった。
T:今度、第44回でしょ?逆算すると、新生京都クラブの前(44年前)とちがうの?
Q:でも、年2回やった時もある。
T:関西VHFみたいに春と夏に分かれていたんやなぁ。
Q:第1回京都コンテストの結果、会報に載ってない?
S:無いなぁ。あの頃、市内の無線屋さん回って賞品もらいに行った。谷山無線、日栄無線、
京洛無線・・・。
一時、結構もらえて、京都コンテストはヘボいコンテストだけど賞品だけは良いと評判になった。
Q:今でもそうや。
S:たまたま、この間、20何年ぶりに仕事で京都市役所に行った時に思い出した。
N:非常無線通信協議会やな。
S:市長賞もらのに、BZCさんの知り合いの議員さん紹介してもらって、IXFと一緒に議員さんに
くっついて秘書課いった。金はないけど賞状ならいいと貰えるようになった。
N:たぶん、京都コンテストは京都クラブが自分でやったコンテストと思っているから、
支部の後援とかにこだわっていない。
Q:ほんまに第1回のこと会報に載ってない?
T:今の会報の1号の前にやっているんやろか?
Q:それもわからない。
N:それも100号記念の時に調べたんちゃうやろか。
T:会報3号くらいに第4回のコンテストが載っている。S45年。
Q:近い近い!!
N:この頃は、市内は小学校の校区がマルチになってるやん。
T:むちゃくちゃマルチあるやん、これ。
Q:昔は、それくらい参加する人がいたんやろう。
S:京都クラブコンテストでしょ、支部とは関係ない。
T:支部がやっていたんじゃないの?
N:UPだけでは、そんな力はない。
Q:ということは、京都クラブが支部を合併したんやな。
S:京都クラブの行事ばっかりやるという批判もあったので、いやそんな事はない提案してくれたら
支部が協賛すると言ったらそれ以来、北部や他のクラブの共催行事も増えた。
N:それは、京都クラブの連中が支部に入ってからや。
S:もちろん。
N:だから他のクラブが入って、活動し始めて連絡協議会やったから、多くの行事がうまく行った。
Q:今のクラブ代表者会議ですね。
N:今でもやってますか?
Q:はい。
N:(会報をみて)これや、京都府支部は名前だけで何もしませんでしたって、いう記事。
けど、私が書いたのはこれとちがう。結構きつかった。
S:別刷りで送ったんちゃうか。
Q:人を選んで。
T:QNHがクラブに入ったのはいつ?
Q:100号の特集をやってたの知っているのでその頃やと思う。
T:何で知ったん?
Q:OINの紹介やったと思う。最初、あまり活動してなくて、年に1回比叡山行ったぐらい。
それからだんだん活動しだした。昭和46年に免許取ってしばらくしてから、京都クラブに入った。
N:(会報をみて)これや、UPを囲む会みたいな記事。
コンテストは本来支部が単独で行うべきものですが支部の事情で共同で行う事になった、
と書いてある。激しい議論とも書いてある。
S:原紙を見ると、途中が修正液で消えてるなぁ。
N:検閲あったみたいや。中井先生(SKY)にやめとけ言われたんやろ。
Q:その場では議論になってたんやな。文字になると、だいぶちがうんやろう。
N:もめたのは、コンテストでなく、新春ミーティングでのこと。
支部の共催と書いてあるのに何もしていない。
Q:とういう事をUPに言うた?
N:言うたかどうかわからんけど思っていた。
Q:いつの会報?
N:48号で1973年12月。そういう話って面白い?
Q:おもしろい。
N:ここにもあった、IXFさんの分。
「京都コンテストついては、クラブ役員と信部京都府支部長が12月の例会後、協議したところ
コンテストの意義を考えると京都府支部として行うべきだとの意見がで支部長にコンテストの
開催を約束してもらいました。京都クラブ編集部としては、京都コンテスト規約を入手すべく
努力したのですが、支部からは何も連絡していただけませんでした。
京都府支部長の約束通りコンテストが開催される折りには、各自で京都府支部に
問い合わせください」って書いてある。完全に突き放している。
Q:コンテストルールのないコンテストやるんやな。
N:結局できんかったんちゃう?
Q:あっ、QNH入会あった。
N:もめてる時に入ったんやな。いつや?
Q:1974年4月。
Q:支部の支部役員がそれぞれの行事主催の母体クラブから出はじめたんは、
RCTの時代かなぁ。
N:たぶん、機能し始めたんは、代表者会議をやり始めたRCTの頃やろ。
Q:そのころ、京都クラブの役員が多いと言う批判があった。
N:RCTの頃でも京都クラブ以外で役員やっていたのは数えるほどしかいない。
Q:やる人がいなかったんやなぁ。今でも一緒や。
N:当時も地域の登録が中心だった。職域クラブもあった。
Q:職域クラブは、けど命が短いでしょ。
N:世代が変わるので続かない。
Q:今でも一緒。
N:UPを糾弾するとか書いてある。
S:今回テープを持って来るべきやったなぁ、「UPを囲む会」のテープ。
Q:それ、捜してもらわなあかん。それと、100号の座談会も。
S:それさがしてたんやけど。どこいったんかなぁ。
N:あっ、FOXハンティングあった。
Q:あっちこっちでやってたなぁ。
N:フォックスハンティングも京都クラブで、2〜3回やった。
Q:よう覚えてへんけど、奈良公園で走った記憶ある。若草山クラブやったかな?。
だれかに連れて行ってもろた。
N:フォックスハンティングは、参加するより主催する方がおもしろい。
キツネやタヌキの配置とか、電波の強さをどのくらいにするとか。
T:LGCがタヌキしてたこか、どっかに書いてあった。久しぶりにやりましょか?
N:けど、今やるとしても50MHzAMの受信機なんか持って無いんちゃうか?
Q:今やったら、144か430のFMやろ。
N:最近のは、メータついてへんのちがう?
Q:専用のリグでやっている人はやっている。
N:専用の造るのたいへんやろ。昔は50MHzのFDAM3なんかメータついてたもんな。
Q:比叡山の山頂使用許可書はどうやって貰えるようになったんか、きっかけは何やったんやろ?
N:日赤でやっていた時代はあそこの看板を持って行ったら貰えたんちゃうかな?
その時代は知らんけど。
Q:最初は知らんけど、途中は延暦寺で講習会やって、楽に貰えたとかいう話を聞いた。
講習会やってから山頂を使いだしたん?それともそれ以前から?
S:それはわからんけど、講習会のつてやったのは確かや。
その口を聞いてもろてた人が偉くならはって、ツーカーでいつも許可が取れていた。
Q:今、その人は総務部長したはる。講習会があってから、そのあと日赤の看板で許可を
もらいに行ったん?
S:それはわからん、日赤の看板の時代はよく知らん。
日赤の看板の時代はオールシティなかったんちゃう?
N:SKY,IXFの時代にオールシティができたんちゃう?
S:この写真、日赤のテントでしょ。
N:ほんまやね。
S:最初は日赤からテントやジープも借りられて、そのジープで行ったらドライブウエイの
ゲートもタダで通れて、ご苦労さんと言われるという話をきいた。
N:最初の日赤でSKYが会長になったときには比叡山に行ってへんのちがう?
S:最初、日赤関係のつてで行って、その後、講習会のつてに変わったと思っていた。
N:この頃からは世代交代してるわ。1〜2世代、上の人達や。
S:やっぱりこのへんの話はSKYに聞かなあかん。
N:尾崎さんも知っているかもしれん。
JA3ARTのコールも載っているから知ってるかもしれん、監査指導委員で出ている。
京都クラブのSKY体制の時にも居たかも知れん。その頃は顔を知らんかったし。
Q:NHKが入った時には、比叡山でコンテストの体制ができあがっていた?
N:いや、日赤にいた時はコンテストやってるなぁと思ってたけど中学生やったから
山の上には行ってなかった。
N:昔から、オールシティコンテストで行ってたんやね。
N:京都クラブ総会60名が参加って書いてある。
Q:2〜300名いたんでしょ?
N:幽霊会員も多かったけど。あの時は入会金500円で終身会員やった。
それは、SKY体制の前やった。
Q:講習会で金をかせいでたとか。
N:それはその後やった。
Q:JE3JWA原さんが中心やろ。
S:京都クラブの講習会と言うより自分でやったはった。
N:京都クラブで講習会は、平安会館かなんかでやったんかなぁ。
Q:入る前か後かわからへんけど、電信級移行コースを京都クラブでやってへんかった?
自分が受けに行った事があるけど、すべった。1点か2点たらんかった。
N:それ、京都クラブとちがうんちゃう?
Q:とにかく誰がやっていたかわからんけど・・・。京都クラブやと思ってた。
N:講習会の管理者がいたでしょ。その管理者になるための講習会を受けて・・・。
誰かそういう人いたんかなぁ。
S:講習会の関係は全然タッチしてないんで知らんわ。
N:講習会の案内は会報に載ってないんちゃう。
S:そんな案内を出した覚えないなぁ。
N:ないない。別のルートで集めてたんやろ。
N:そやそや、東山会館でミーティングやった時、UPを攻撃するやつがおって、
すごまれて大変やった。
Q:灰皿が飛んだとかいうやつ?
N:怪我はしなかったみたいやけど。
Q:OINから聞いた覚えがある。
T:UPさんは、会報1号のころからかかわっていた?
N:それは、京都で無線が始まったころからや。そんな闇の部分の話は残さんとあかん。
Q:自叙伝みたいなん書いてもろたらおもしろい。
T:UPを囲む会のテープとかを書いたら?
S:あれ、120分テープで2本もあったからなぁ・・・・
Q:ハイライトのシーンはYAQのPR−CDROMに入れといてや。NHKが怒鳴っているとことか。
S:もう1本、BOHの自宅へIXFと押し掛けた時のテープもあった。
N:僕もいった、オスカー6の時。
Q:スキーと宴会しに行った。大人数で泊めてもろた、あそこの家大きいし。
N:大きい、大きい。
Q:大宴会やって、料理いっぱいあって、お金を払う言うたのに、もうええとかで払ってない。
すごい出費やで。
S:なんか仕事して来たか?アンテナあげたとか・・・。
Q:してない。ところで、BOHは南極着いたやろか。
S:まだだと思うけど、出発したと言う連絡が来た。
N:越冬するの?ちよっと、何かしてすぐに帰ってくるの?
Q:越冬隊。
S:本格的やなぁ。
Q:無線しに行っている。
N:福井県大野市で寒さに慣れているからなぁ。
S:レベルがちがうで。
Q:電離層の観測とか言って無線してるやろう。
T:村田製作所(JA3YQA)で京都コンテストで入賞してますね?
Q:一時、ようやってた、長岡から。ところで、野洲のコールサインは?
N:知らん、いつもカード見ながらやっている。
Q:YQAの最後の免許人はNHKか?
N:書き換えた覚えない。
T:切れてる?
Q:切れてる。京都クラブで次の社団局、このコール、取りにいこ。
T:コールが似てるし。
T:昔、移動でマイクロバス使ってますね。「ぽっぽちゃん号」と書いてある。
N:それRCTのや。マイクロバスにスカイラインのエンジンを載せたとか・・。
S:マイクロバスで、網野もよく行った。
N:食中毒事件もあったし。
T:NHKの奥さんとRCTが病院に運ばれたとか、古い会報で見た。
N:あれ、うちの嫁さんが作ったおにぎり。
S:それにあたった?
N:一晩越したのを食べた。
Q:移動の集合は、西京極体育館前。
N:そこからみんなで乗り合いで行った。
Q:トラックがいつも1〜2台あった。
N:あれ、JE3AEZのトラック。
T:そう言えば、会報のどっかに支部行事でソフトボール大会や卓球大会があったと
書いてあった。
S:北部と交流をはかるイベントと違う?
T:1978年の、8J3ITUは京都クラブ?
N:私が、チーフオペレータやったんで覚えている。
京都クラブが主体になった別のグループをBZCらとつくった。
無線局はJARLが京都国際会議場に準備してくれた。無線機は日栄無線から来て、
アンテナはOINらと建てた。
Q:OINは休みを取って・・・。
N:500Wの検査したのも覚えている。JA3AA島さんもやって来てた。
そういえば、移動局もあった。専用の車(マイクロバス)で。あの車に載っていたリグが
盗まれた事もあった。その車がクラブで持ち回りをやった時や。あの時、原会長も
来ていた。さらに、画期的やったのは、まだ、外国人が日本で運用する協定は無く、
特別に認めてもらってアメリカ人かカナダ人2〜3名が運用していた。
Q:それ、本国で免許ある人?
N:もちろん。けど、免許の確認してないけど。
Q:この間の8N3ITUのときも一緒や。
N:何かコンテストにも参加した。
Q:京都で記念局やる時、全部、京都クラブが関係している。あっ、違うわ、平安建都
1200年の8J3KYO、あれはJA3FGX西川さんがやってた。
T:あの最中に亡くなった。
N:あれは固定局だけ?どこにあったの?
Q:固定局と移動局の両方あった。
T:烏丸押小路の建都1200年協会の事務所の場所。
移動局は各クラブが持ち回りで、京都クラブは全市全郡コンテストを比叡山から
運用した。それとか、後の処理とか、アンテナ設置なんかでも京都クラブが協力した。
そうそう、大晦日も運用していた。もう終わりますよーーって。
Q:有効期限いっぱいまで。
N:8J3ITUの時は、京都クラブから役員を出したって感じだった。
T:この間の8N3ITUの時は関西地方本部が仕切っていた。
N:関西地方本部といえばJA3XZW田路さん?
Q:もうやめて、その後、JA3AA島さんの時代。島さんもやめてます。
T:JA3AAさんは、コンテストには出たはります。
Q:あのころJARLの選挙で激しくやってたでしょ、RCTが立候補した頃。
田路さんと。かなり、すったもんだやって、しこりは残っている。
N:田路さんて、京都クラブやったね。
Q:そうや。
N:なんでやったんやろ。
S:UPを囲む会か何かの時に京都にきゃはって、京都クラブに入って下さいよと強引に入れた。
Q:あっ、そうなん。僕が田路さん京都クラブに入れたんは2回目やったんか。
入れたというか、向こうがお金を払わはったから受け取っただけで。来る者、拒まずやから。
T:去る者、追わずでもある。
S:UPを囲む会の頃、きゃはったよ。
Q:それ、100号前後?
N:48号の頃。
Q:僕が会長やっている頃に入らはったんですよ。同じ京都クラブの中で支部長どおしで
選挙した事もあるし。
RCTの選挙の時も両方とも京都クラブ員やのに、京都クラブはRCTを推薦しますって・・・。
T:それを、会報に書くんやもん。
その会報がでたら、すぐに電話かかってきた。2時間くらい電話で田路さんと話をしてたけど。
京都クラブに何をしてくれたんですかって言った。
N:今日、RCT来る?
T:来る。(XYLの)ユリさんも。7L・・、コール、何やったっけ?
Q:訳のわからんコ−ルサインや。
T:1970年この頃毎年気合い入れてオールシティで比叡山に行ってるね。1位とか
2位とかになってますね。
創立40周年の時みたいに、今年はやるぞーって事は無しに。
Q:オールシティで全国1位って何回かなってるね?
S:なってるよ。
Q:創立40周年の時が、全市全郡コンテストで初めてやったんやね。
N:オールシティって、比叡山に上がったらいつも1位やったやん。
S:そうでもないやん。
Q:6m&Dで1回比叡山に上がった事がある。いつもは上がらなかったけど。
その時は1位になった。
T:この頃って、人集まったんやね。
Q:僕、覚えてるけど、無線やりたくてもさせて貰えなかった。
N:僕なんかエレキーもって後ろで待っていた。28MHzとか1200MHzとかだれも出て無い所しか
やらせて貰えなかった。
Q:そのくらい人がいたんや、1バンド3人くらい確実に張り付いていた。
S:アンテナ倒れて骨折った人もいたし。FHWや。
N:僕もあの時いたんやけど、怪我はしなかった。一番上に居たのがFHW。
T:立ててる最中?
N:建てたんやけどステーを張ってなかった。
S:ステーを張る前。
Q:足場か?
N:3段くらいの足場。風で足場が倒れた。
S:比叡山山頂の三角点の上に建てた足場。
N:山頂のコンクリートの水槽ができる前。
T:救急車呼んだ?
S:その時、どうもなかったけど、しばらくして腫れてきたんで、だれかが連れて降りた。
指の骨やから。
Q:指の骨か。それやったら、吉井君(JK3DEV)の指切断事件があるわ。
T:創立40周年の撤収の時、OIN倉庫で荷物を降ろしてる時に、トラックの荷台の隙間に
指をはさんで。
Q:僕、車に乗せて近くの救急病院に走った。そのほうが救急車を呼ぶより早いから。
病院の戸をたたいてた。
N:当直の人いた?
Q:たまたま良い先生でよかった。
N:インターンとかやったら大変や。
Q:良かったんや、ぼろぼろの病院やけど。そんなん言うてられへん。選択の余地無かった。
N:全治どれくらい?
Q:あれだいぶ入院してたで。
N:入院してたんか。
Q:その時、RCTが支部長で、行事ごとに傷害保険かけていた。網野に行くときとか。
N:保険屋の代理店をやってるもんね。
Q:そうそう、保険をかける人のリスト作るだけでいい。
吉井君を病院につっこんで、待っている間、ちょうど携帯電話ができた時やって、
RCTが持ってたのを知ってので、電話して、保険をかけてるかって聞いた。
N:かけてた?
Q:かけてなかった。今からかけるかって言われたけど・・・。大きい事件やったね。
T:あの時、吉井君の車もぶつけられてたし。
N:凶の日やったんやなぁ。
T:比叡山は、いつでも発動発電機(発々)でした?
N:10KW、3相交流、天文台の、あれまだあるのかな?
Q:わからん、最近、行かへんし。
S:どっかの黒点観測するためにあったんやろ。
Q:インドネシア。
S:それ以外は使わないんやけど、RCTがその発々をメンテするという条件でいつでも貸すよと
いう事になった。
N:中井先生(SKY)、まだ天文台にいるの?
Q:退官したはる。けど、もうあの発々はいらんわ。関西電力に言うて電気を引いた方が楽や。
N:生きてる線からひくの?
Q:盗電ちゃうで、仮設を引くんや。比叡山で1KWを降ろす時にやった。
N:幾ら掛かった?
Q:3万円くらい。近くに柱上トランスあったら簡単に引いてくれる。あそこには、たまたまある。
T:鷹峰山の時もいっぺん引いたなぁ。
N:あそこ、近くに家あるんちゃうの?
Q:ちがうで、山の上のほうや。関電の中継所のある所。
JH3FYCが伏見の営業所にいて、そこで話を聞いて、たまたま鷹峰山は伏見の営業所
やったんで手続きの時、横に来てもらって、ほとんどやってもらった。
電線を100mくらい下の方から引っ張ってもらった。
ただ、引き込み用のポールを立てるのは、こっちの負担になるんで困ったが、
結局、会社の関係の工事屋にやってもらった。
T:あの時、鷹峰山で関西VHFと全市全郡が続けてあって、1週間くらいQNHと2人で泊まった
N:合宿してたんやな。あの山に行く道は、良くなってるの?
Q:一部だけ舗装になっている。
T:ちょうど、VK/ZL1コンテストもあってそれもまとめてって感じで、テント張って、無線機を
並べて・・・。それ考えたら、1週間も発電器を回せんので、電気を引いた。
Q:定額やし、なんぼでも電気を使え、もっと無線せーとか言っていた。
N:撤収も含め関電やってくれるの?
Q:仮設のポールは取りに行くのが面倒なので、その時に持って帰って来た。
電線は生きている状態でニッパで切ってその辺に放ってきた。関電がそうしといてって
言ってた。
N:関電が後片づけに行ってるんやろな。
Q:費用は、電気代より、手間賃や。比叡山の時は、関電の下請けが行っていた。
工事中に問い合わせの電話がかかってきた。
T:支部大会のときは京都クラブで仕切ってるんですか?会報みると少なくともブースなんか
出てるし。
N:しばらくは、京都クラブ=京都府支部やからなぁ。
T:支部行事は京都クラブでやってた?
N:監査指導委員とか有力な地域クラブにもお願いしていた。
この頃なら、QNHも知ってるんちゃう。
Q:入ってたかもしれんけど、比叡山にコンテストしか行ってないと思う。
N:編集だれやってるん?小泉君?
S:77年頃なら、私でしょう
Q:これコピー機やなぁ。ガリ版の時代は終わっている。
S:原さんの時代からコーピ機や。
Q:OINがよく、ガリ版刷りにSKYとこ行ってた、夜な夜な。
N:よく、みんな集まって。
S:その時の事で覚えてるのが、ガリ版やったけど写真を入れたくなったんや。私が。
N:え、そんなんあったん
S:大学の近くのコピー屋を何件か、というか何機種か、まわった。
機械で性能が違うので、たとえば、ユービックスがいいとか、リコーがええとか、それを試して
一番綺麗なとこに写真を持って行ってべた焼きして張り付けた事を覚えている。
N:1枚で沢山とれるもんなぁ。
T:この頃の会報は完全電子化してます。
N:画像も入れてるの?
T:はい。
S:電子化で思い出すのは100号記念くらいの時にわざわざそのために原さん(JWA)が
和文タイプライターを買ってくれた。「使って下さい、小泉さん」と言われたけど全然、
打てんかった。
Q:字の場所がわからない?
S:がらがらと回すやつは打てへんけど、パンライタって四角いマスのやつやった。
Q:昔、OINやってたなぁ。
N:そうや、OINとこにあったなぁ。
N:OINがヒマに任せてやった。
S:その後、編集をほとんどおりる時に会社にワープロが初めて入った。
N:うちの会社にも入った。
S:東芝のJW1って言って、600万くらいするやつ。
N:5インチのフロッピーで。プリンタがドットインパクトで、ジーっと言うやつ。
休みの日に会社に出てきて打ち込んだんを覚えてる。ワープロで打った会報第1号や。
その時だけポツンと活字のがあるはずや。
Q:めっちゃ金のかかっている会報や。
S:夏の頃やったと思う。暑かったんを覚えてる。
N:そのあと、誰が編集してたん?
T:JF3LGCかな。
Q:編集スタッフ、JR3EOI、JH3UBF、JA5VBB。
S:JA5VBBって、学生時代の友達や。強引にこれ清書しといてって渡しといた。
T:OINの結婚式に突入して会報になったんもあった。
Q:嫌がる嫁さんパーティ連れていった。
T:嫌やったんかな?
N:そりゃ嫌がるがな。
T:けど、読売1万局の新聞記事には、奥さんの協力で出来た。理解のある奥さんって
書いてある。
N:けど、読売1万局はほとんど結婚する前にできてたんやろ。
Q:OINは休みになったら無線機を持ってどっか行っていた.
N:7MHzとかよく出てたんちゃうん?移動運用をせんでもOINの所やったら十分に飛ぶ。
S:けどものめずらしさで呼んでもらえへんかったら稼げへんもんね。
N:OINその頃、全国理事に立候補したんちゃうの。
T:これや。
S:この文章を書いたん僕や。
Q:何や、昔からずっとそうなんや。今の選挙の文章は僕が書いてる。
S:いつもゴーストライタおるんや。あの時、立候補するけど、どう書いたらええかわからへん。
書いてくれって頼まれた。
Q:その味を覚えてるんや。
N:1998年の京都府支部大会のコンテスト表彰の着物の人、小田操さんて、あの人?
Q:そう。うちの会社の人。10年くらい前からうちの会社の関係の人がやってる。
会社を辞めても追いかけてる。京都コンテストの賞状を書かかはる人もうちの
会社の人、もう辞めてるけど。
支部大会への参加は、みんな結構、喜んで来てくれるよ。
N:えーっ、QNHがそう思ってるだけちゃうの。
Q:後でみんな言うよ、着物が着れるから嬉しいって。
N:最近、1アマは居ないの?
Q:創立40周年の時は、2アマがいっぱいやった。今は1アマがいっぱいいる。
T:試験に和文CWが無くなったら増えた。
Q:みんな、和文がひっかかって2アマで止まってた。
T:比叡山1KWの検査の時には、電監の周りにいっぱい1アマの免許証が出てきた。
Q:40周年の時は3人くらいしか居なかった。
T:昔、RCTの家がYAQの固定やった時、忘年会とミーティングと固定運用するって
集まってませんでした?
N:あそこどうなってんの?
Q:まだ工場の方はアンテナ上がっている。1KWの免許をおろすっていってる。
T:RCTとこで酔っぱらって灯油をまいたとか聞いたけど
N:まいたと言うか、蹴飛ばして火事になった。あの後どうしたん?
Q:なおしたんちゃう?10年以上前やけど
N:あそこどうなってるの?
Q:更地。別の所に家を建ててる。
N:BZCどうしてるの?
Q:僕、BZCとはあんまり一緒に活動した記憶ない。
S:無線は好きやった。
N:あの2エレまだ残ってるんかなぁ。
S:(昔の山頂の移動の写真を見て)この配電盤まだあるの?
Q:この間の比叡山で電気引いた時にも分配器として使った。
S:この3個の大きいスイッチが並んだ並んだ配電盤は私が作った。
材料はどっかから来たんやけど、あと適当に作った。
三相やったから、とにかく電流を平衡して使えって、コタツをつけていた。
S:(SCVの持ってきた昔のアルバム見ながら)これ誰やった、JE3UYIや。
T:JE3UYIってNECやったっけ?
Q:人工衛星作ってるって。NEC横浜。
N:横浜ってうちの会社の開発センタがある。
Q:僕も横浜出張いった時に、中華街に行こうと思って歩いてたらJRの改札でばったり会った。
懐かしいなって飲みに行った。
Q:その当時、重宝していたもの、さっきの配電盤などはOIN倉庫に結構残っている。
比叡山で下のポンプ小屋まで延々と引っ張っていた電線とかも残っている。
S:これ、アメリカ建国200年のコンテストの時の写真。
N:自衛隊やなぁ。
Q:OINもびびるほど高いタワー。
S:30−40m
N:これ、EFさんや。
T:EFさん、何年か前に亡くなっている。
N:これヨット?
S:RCTが友達と持っていたヨット、一度、琵琶湖に行った。
=== そろそろ新年会が始まりそう ====
N:まとまった話してないな
Q:まとめなあかんのは編集部や。
T:ありがとうございました。またクラブに入ってください。
(この記事は1999年2月京都クラブ会報No.342に掲載されたものです。)
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Last Update May 12,2000